Kabamyレポート(第二十五回)二〇一七年八月二十日(日)
 於あんさんぶる荻窪(第1教室)
 

【参加者】高柳蕗子、久真八志、飯島章友、中成、山下一路、鈴木智子、木村友、本田葵
 
 今回のKabamyは「論点を探そう!評から読みとく斉藤斎藤「人の道、死ぬと町」(後半戦)」です。斉藤斎藤「人の道、死ぬと町」を引き続き取り上げます。


前半戦の総括のなかで、斉藤斎藤作品を読んでいてときに嫌悪や腹立ちを感じるという意見がありました。また山田消児「斉藤斎藤論(斉藤斎藤には打消し線)」の結びには『これからも皆の神経を楽しく逆撫でし続けてほしい』とも。斉藤斎藤作品の評を参照すると、このようにさまざまな読者の神経を「逆なで」しているケースが見られます。ただし「逆なで」することが直接ネガティブな評価へと繋がっているわけではないようです。斉藤斎藤作品の「読者の神経を逆なでする」性質は、作品の一つの特徴と考えられそうです。

そこで今回のKabamyでは、斉藤斎藤作品の「逆なで」を集中的に分析し、作品に寄与しているか否かを検討します。
※「逆なで」……今回はネガティブな感情を喚起する事と定義する

 

今回は「人の道、死ぬと町」のなかでも特に読者からの反響が大きい(よく取り上げられる)「証言、わたし」「予言、〈私〉」「NORMAL RADIATION BACKGROUND 3 福島」の三作品を集中的に取り上げます。

 

以下は二つのグループに分かれて進めました。
チームA:高柳、飯島、中、山下
チームB:久真、鈴木、木村、本田

 

〈進め方〉
対象作品に関して書かれた評論や座談会資料(評者や発言者がネガティブな感情を覚えたことを語っているもの)から、また参加者自身が対象作品を読んだ感想から、次の表を作成する。
(1)読者のネガティブな感情
(2)1の感情を喚起した作品の特徴
(3)2の特徴が1の感情を喚起した理由
(4)一連の過程が持つ効果(良い効果、悪い効果)

完成した対応表をもとに、この分析結果から該当作品をどのように「評価」するかを検討してグループとしての結論をつけていく。

以下、グループごとに成果発表。

 

●チームA
評価:問題提議として価値がある

 

理由:短歌表現として許容されている幾つかの固定観念を刺激し、不快感等を起こさせ、それぞれの「一線」を意識させる

結論までの経緯:既存の評論をベースにまとめていった。論者のなかで倫理的に間違っているという不快感、死者に成り代わっている事への拒否感を述べている。また短歌として散文的過ぎるのではないかという意見もあり短歌としての固定観念をも刺激しているようだ。それまで読者が考えていなかったことを考えさせる状況を作り出している。倫理観、私性や短歌表現として許容される固定観念を刺激することは、短歌の領域や表現の領域を考えさせることにつながり、評価できると結論付けた。

 

ディスカッション:
・作者というか歌集に向き合いたくないという感情を持ってしまう。社会性が強すぎるため。社会性から離れるために詩歌をしているところがあるので、作者と考え方がかけ離れていると感じる。
・短歌表現として許容される固定観念として倫理の問題が含まれるのはなぜか?→短歌という場では、死の扱いについても特有の許容範囲があると思われる。死者に成り代わって詠んだ歌の例は古典にも見いだせるのに、今回の歌は拒否感があるという意見は、それだけでは批判としては機能しない。別の理由があるのではないか。
・結論は、各読者が普段意識しない固定観念があり、その境界線を刺激されると言い換えられるかもしれない。→刺激されているのは境界線ではなく、矛盾点のようなものだと補足できるのではないか。あるテーマに関して厳密につきつめるとうまく答えられない、ダブルスタンダードを含んだ、曖昧な領域を誰しも持っているのでは。その曖昧さを突かれてしまうから嫌な感情を覚えるのではないか。
・斉藤斎藤作品は自分の考えを表明して読者に問いかけるような歌の他に、微妙な言葉遣いを駆使し主体をぼかして自分の考えは隠しつつ読者に問題を問うような歌も多い。このような歌は読者としても逃げる余地がなく、追いつめられてしまうのではないか。

 

●チームB
評価:読者に考えさせる効果はあるが、作者が前面に出ていると感じられるため、その効果が打ち消されてしまっている

 

理由:ユニークな引用手法、テーマ性などで様々な問題意識を読者に持たせる・考えさせる効果がある。しかしそのような問題に踏み込んだり、ユニークな手法をを使う作者性も強く感じられてしまうので、作者の意図や価値観が結局気になってしまう。よって効果が打ち消され、弱まってしまう。

 

結論までの経緯:こちらのチームは参加者の感想が多く集まったのでそれを中心にまとめた。覚えた感情としては「混乱した」「えらそうで嫌」「それって短歌でいいの?」「気持ち悪い」「切実さに圧倒させる」「ずるい」「不真面目な感じがする」「他人事感がある」など。このなかで中心的なものをまとめると、「情報量が多すぎて理解が追いつかないゆえの混乱」「誰の視点なのかよくわからない」「死の扱い方に問題がある気がする」などの理由によるものであった。それらの効果として「作者が前面に出過ぎと感じられてしまう」(ユニークな引用手法を用いること、さまざまなタブーに踏み込んでいること、などによる)ことと、「わからない点が多いので読解の余地を多く残し、読者に問題を考えさせる」というものがあるとした。ただ、読解の余地が多くある一方で読者が読みに迷ってしまうことがあるので、そこで作者が前面に出過ぎていると、つい作者の意図や価値観が気になってきてしまう。結局、作者は何がしたいのかという話題に展開しやすく、読者に考えさせる効果を打ち消してしまっているのではないか、と結論した。

 

ディスカッション:
・「わからない」とは何がわからないのか? 作品の内容やテーマはある程度明確ではないか → 読者がどのように読んでいいかわからないということである。普通であれば読みの幅が広いことは歓迎されやすいが、斉藤斎藤作品の読解の余地が大きいところが、むしろどう読んでいいか迷わせる。→ 迷わせるのは作品内の事実関係というより、作品が描く内容に対して読者がどういう態度を示すべきかという点ではないか。さまざまな問題意識に触れているため、読者が読みを示すなかで、自分がその問題に対してどう臨んでいるかまで表明しなければいけないような気にさせられる。 → 今までの短歌では読者に直接問いかけるような形式の歌もある(「あなたはどうなのか?」という止め方)が、その場合は作者が問いかけているという読みを示せば終わりだった。斉藤斎藤作品の場合、それができない。

 

〈会場意見〉
・問題に対して「お前はどうなのだ?」というような問いかけを含むような方法は、啓蒙主義に通ずるものがある。それがちょっと出ていて、あまり気に入らない。
・今回はネガティブな感情を表現した評論資料を参考にしたが、これらの論者は本当にこう思っていたのか気になる。本当はもっと面白かったのでは? でも作品が誰かのタブーに触れている、こういうやり方に反感を持つ人がいることを想定し彼らに配慮しているため、ネガティブな印象は受けたがそれはこれこれこういう良い評価につながるという書き方になってしまうように思った。
・言葉の軽さという指摘があったが、気軽に「死ね」と冗談めかしていう環境にいるので、あえて軽く書いているように感じる。そこにあまり問題を感じない。
・散文の付け足しのように短歌が書かれている作品は、短歌は散文に貢献するものなのかと不安になった。散文に対抗する短歌とは何かを考えさせられた。

 

(記/久真八志)
 

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