Kabamyレポート(第二十一回)二〇一六年十二月十一日(日)
於あんさんぶる荻窪(第1教室)
 

【参加者】高柳蕗子、久真八志、飯島章友、河野瑶、山下一路、沢茱萸(ゲスト)中崎成、温井ねむ
今回のKabamyは「歌集の副読本ビブリオバトル!」と題し、歌集の副読本を紹介し合いました。また後半には本年度短歌研究新人賞「いつも明るい」(武田穂佳)の選考委員選評を検討しました。

 

 

◆歌集の副読本ビブリオバトル!
【進め方】
1.発表参加者が読んで面白いと思った本(歌集の副読本)を持ってくる
2.順番に一人5分間で本を紹介する
3.それぞれの発表の後に参加者全員でその発表に関するディスカッションを行う
4.全ての発表が終了した後に「どの副読本が単体で一番読みたくなったか?」および「どの副読本と歌集をセットで読みたくなったか」を基準とした投票(一人五点持ち。自由に配分)を参加者全員で行い、最多票を集めたものをおのおの『チャンプ本』とする

 

【発表】
◎温井ねむ
副読本「べっちんとまんだら」松本次郎
歌 集「ビットとデシベル」フラワーしげる
 副読本は杉並区の河川敷でゾンビ駆除を行うべっちんとまんだらという少女を描いた漫画だが、ストーリーにはほとんど脈絡がない。作中の描写は彼女の妄想ではないかと思われる箇所もあり、またべっちんは記憶の欠落を抱えている。自分自身に頼るところがないまま、べっちんの強い感情だけが作品を通貫している。ここでは自分自身が感情の穴となっている。
「ビットとデシベル」の作中主体は矛盾するアイデンティティによって分割され、それらが衝突し合うような全体を持たない存在である(久真、Kabamy14) 自分自身が何者かははっきりしないが、強い感情は確かに存在し、大きなエネルギーとして自分のなかに渦巻いている。

 

◎沢茱萸
副読本「性悪猫」やまだ紫
歌 集「燦」河野裕子
 『性悪猫』の中に収められた「天空」という二ページの作品を紹介し、漫画で表現された「短歌的視点」について論じた。作品冒頭に登場する猫(作中主体)の視点が、コマを進めるごとに猫から離れて最後は作者の意識の世界へと転じ、読者も共に「そこ」に連れて行かれるのである。このような体験が、非常に短歌的であると考察した。
 河野裕子の連作「菜の花」の中に「しんきらりと鬼は見たりし菜の花の間(あわい)に蒼きにんげんの耳」という一首がある。やまだ紫は『性悪猫』の次作のタイトルを『しんきらり』とし、作品冒頭で「菜の花」の連作九首すべてを引用している。このことから、当時やまだが河野裕子の短歌に少なからず影響を受けていたことは明らかである。
 つげ義春はやまだ作品について「ストイックすぎて読後のカタルシスがない」と評しているが、「菜の花」が収められた河野裕子自選歌集『燦』を読んで、こちらもまたストイックさを感じずにはいられないのである。

 

◎久真八志
副読本「草食系男子の恋愛学」森岡正博
歌 集「それはとても速くて永い」法橋ひらく
「草食系男子の恋愛学」では、劣等感を抱えているせいで恋愛に対する苦手意識がある男性を草食系男子とし、彼らが自分の弱いところとどう向き合うべきかを説く。男性には自分の弱いところを隠すために身につける鎧があるという。ちなみに発表者は自分のなかの怒りを隠したくて感情を出すのを苦手にしていたため、『電線で混みあっている青空のどこかに俺の怒りの火星【アレス】』という歌集収録された一首に共感を持っている。
歌集の主体は性欲への嫌悪を詠ってもいる。それが行き過ぎて、人を強く愛したいという欲求すら抑えるべき対象になってしまっているのではないかと感じた。人に愛情をぶつけることの激しさを恐れて、それを隠すための鎧として優しさを身につけているように思える。自らの優しさに対する屈託はそこからきているのではないか。

 

◎飯島章友
副読本「川柳神髄」尾藤三柳
歌 集「一握の砂」石川啄木
明治43年に刊行された『一握の砂』には一般的なイメージに反し〈変な歌〉も散見される。この啄木の変な歌は「へなぶり」という明治狂歌の影響を受けていた可能性が高い。狂歌とは五・七・五・七・七で構成される諧謔形式の短歌。〈啄木のへなぶり調〉とはたまに耳にするが、「へなぶり」がどんなものなのかを記した書物は殆どない。ここに紹介する『川柳神髄』は、先日亡くなった川柳家・尾藤三柳氏の評論集。本書は「へなぶり」についても一テーマとして論じている。本書によると「へなぶり」は明治38年2月24日、読売新聞紙上に同紙の川柳欄選者だった朴念仁が「へなぶり」と題する狂歌二首を発表したことに始まり、その後読者からの投稿が寄せられてたちまち人気欄になったという。狂歌・川柳が啄木に影響を与えていたかもしれないと思って読むと実に興味深い。

 

◎河野瑤
副読本「整形前夜」穂村弘
歌 集「羽虫群」虫武一俊
 穂村弘はなぜ痛いおじさんにならないのか。それは驚異をベースにした年齢不詳の若さによるのではないか。穂村は副読本で「驚異こそが詩の源泉である」と断定し、若者は驚異と親和性が高いと述べている。
しかし一方で近年の若者については言葉が共感寄りにシフトしている可能性を述べ、それによって世界が更新されず、より大きな世界の滅びにつながることを危惧する。
虫武の歌はニートや就職面接が題材として取り上げられ、それらへの感慨が詠われていると捉えられがちである。しかし世界への違和感をベースにした驚異の歌も散見される。今の若者は以前よりもこの環境の中で驚異を表現しているのかもしれない、それを知るためにいい歌集であろう。

 

【結果】
副読本のみ:沢茱萸の紹介した「性悪猫」(やまだ紫)がチャンプ本となった。
 【会場意見】短歌と絵の関係性についてインスピレーションを得られそう。
副読本+歌集:飯島章友の紹介した「川柳神髄」(尾藤三柳)+「一握の砂」(石川啄木)がチャンプ本となった。
 【会場意見】これまで石川啄木にはあまり興味が持てなかったが、「へなぶり」という全く知らない見方を与えてくれそう。

 

 

◆短歌研究新人賞「いつも明るい」(武田佳穂)選評の検討
進め方:該当作品の選考委員(穂村弘、加藤治郎、栗木京子、米川千嘉子)の選評や座談会の講評を読み、最も納得できる/納得できない評をしている選考委員をひとりずつ挙げる。
以下、会場意見を抜粋。


・作者を高校生ぐらいの若い年代に想定し、その作歌姿勢に踏み込んで、若者らしいとポジティブに評価してしまっている。想像される人物像と作者が全く異なる年代性別だったとしたら通じないやり方ではないか。それを避けて作品にフォーカスしている委員もいる。
・ほとんどの選考委員が青春にうっとりし過ぎではないか。今の十代の現実が表れていると評価する発言もあるが、年齢がかなり上である委員が、なぜそれを十代の現実だと言いえるのか。自分が体験してきた青春のきらめきを投影して、その良さにうっとりしてしまっているだけではないか。十代の現実は多様であるのが当たり前なのに、特定の傾向を「若者らしい」と言う根拠が見出せない。選考委員の好みの青春、若者らしさを評価しているに過ぎないのではないか。
・外界と向き合い自らの心を覗きこんでいる点を評価しているが、それがなぜポジティブに評価し得るのか。それだけで良いと言えた時代はもう過ぎているのではないか。
・受賞作の感情の淡さを「ゼリー状の輝き」と表現した点は的を射ている
・裏を返せばすべて嘘かも知れないという感覚が詠われているとする評があるが、その不確かさに焦点を当てているのがまさに受賞作ではないか。大方の選考委員は、ストレートに十代の感情の淡さが表れていると捉えてしまっている。
・受賞作は「キャラづくり」をしているという見方も可能である。選考委員で作者の今後を楽しみにしているような発言があるが、このキャラでそのまま行くのは難しいのではないか。
・そもそも選評のなかでで今後が楽しみというエールを送ってしまうこと自体、評として適当でない。更にこの発言の背景には、作者のプロフィールが不明であるにもかかわらず、作品で描かれた人物をストレートに作者像と重ねる読み方がある。現在の短歌では必ずしもそれが一致しないことを念頭に置くべき。

(記/久真八志)
 

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