Kabamyレポート(第十八回)二〇一六年六月十二日(日)
 於あんさんぶる荻窪(第2会議室)
 

【参加者】高柳蕗子、久真八志、山下一路、飯島章友、河野瑶、斎藤見咲子、櫛木千尋 (購読会員)足田久夢 (ゲスト)温井ねむ
第十二回の Kabamyは「問と答で読める/読めない短歌・俳句・川柳」です。今回はテーマに沿って飯島さん、山下さんが発表を行いました。

 

○飯島章友『川柳の問答と俳句の切れ』 
川柳という文芸は、一句の中に「問答」を内包していることが多い。一七六五年に初篇が刊行された川柳アンソロジー『誹風柳多留』から例をあげる。


かんざしもさか手に持てばおそろしい


 例句は、「問 かんざしってどんなもの?」「答 恐ろしいものだよ……」「問 どんなときに?」「答 逆手に持ったときさ」という問答の関係が一句に埋め込まれている。そしてこの問答体が、「かんざしハおそろしい」という意味の完結感を生んでいる。
現代の川柳でも一句の中に「問答」を内包する作品は多い。


いもうとは水になるため化粧する  石部 明 


 石部の句では、「問 いもうとが化粧するのは?」「答 水になるためだ」という問答が成り立つ。ただし、「化粧するのハ水になるため(である)」という問答関係には論理の飛躍があり、意味が完結しきらない。こうした曖昧さを残したままの問答は、現代川柳の或るエコールの作品の特徴であり、古川柳とはまた違った妙味を生んでいる。

いっぽう川柳とおなじ五七五形式の俳句は、一句の中に「切れ」を組み込むことで文脈や論理を断ち切り、明確な答え=意味が生じないよう工夫してきた文芸に思える。


古池や蛙飛び込む水の音  芭蕉


 外山滋比古はこの句について次のように分析する。
「『古池や』のあとの空間において、古池の残像と、それと方向の違った『蛙飛び込む』という二つの表現が重なり合うことになる」(『省略の詩学』)
「切れ」によって生れた「古池や」と「蛙飛び込む水の音」の二ブロックは、鑑賞者に明確な意味を生じさせるのではなく、取合せによる情緒を生じさせる方向に働いているのだろう。
 また仁平勝はこの句を例にあげて、俳句の言葉は必ずしも意味を目的にしないことを説いている。
「この句のもとになる風景は、〈蛙が飛び込んで水の音がした〉ということです。その意味だけ考えれば、『古池に蛙飛び込む……』としても同じで、むしろそのほうが意味は明確になります。それをことさら『や』とするからには、俳句の言葉がかならずしも意味を目的にしていないことがわかります」(『俳句をつくろう』)

 

 しかし現代の俳句を眺めてみると、まるで川柳の問答体を思わせる構造も散見される。


この世でもあの世でもなく耳の水  野間幸恵 
あぢさゐはすべて残像ではないか  山口優夢


 たとえば一句目は、「いとこでも甘納豆でもなく桜 なかはられいこ」という現代の川柳作品と同じ書かれ方である。二句目は、たとえば先の「いもうとは水になるため化粧する」という石部の川柳と比べたとき、むしろより意味が明快なくらいに思える。このように現代の俳句と川柳は、両詩形のそもそも論だけでは比較しきれない状況にある。ただし、両詩形の一部の類似をもって全体論にまで押し広げることはしたくない。


 今回のレポートは、あくまでも歌人に向けて作成したため、「問答」「切れ」という両詩形の歴史的な標準構造をおもに探ってみた。今後また似たテーマで発表する機会があるなら、そのときは現代の俳柳の異同に焦点を絞り、第三者たる歌人の意見を聴いてみたいものだ。

 

 

○山下一路 レジュメ抄
・永田和宏の見解
「上句と下句がほとんど何の脈絡もないような別々のことを述べているにもかかわらず、ばらばらに分裂してしまうことなく一首として読めるのは、そこに吉本の言うように韻律の強い力が磁場のように働いているからだろう。しかし、その二つの句が互いに深い対立性のうちに、互いに喩として作用し合うような機能(短歌的喩)は、決して〈指示性の根源〉としての韻律の力だけによって生まれるものではなくして、そこにはかならず、言語本質のもう一方の属性としての自己表出性が可能なかぎり励起されていなければならない」(『表現の吃水』永田和宏 )
→自己表出性の欠落が、歌いづらい状況のなかで読者が感動する作用を削いでいる、というのが永田の考えだ。日常的な自己に違和を提示し、亀裂を感じ、自己を揺すられ自己認識の再検討を迫られ自己変革へ向かう行為を一首、一連の歌に求める熱い思いがあった。自己表出性の欠落を永田は『「問」と「答」の合わせ鏡』のなかで、主体と対象の関係性として述べている。


〈例歌〉硝子越しに五月の海を磨きつつ遠くなりたる青春思ふ 志垣澄幸


→上句の魅力的な「問」のフレーズに対して、「遠くなりたる青春」の予定調和な安定した「答」には上句と下句の緊張関係がない。

 

・短歌が現在でも保存している表現の原型
ゝ甸囘表現+空白
客観的表現+主体的な感覚をあらわす助詞・助動詞・形容動詞等


〈例歌〉
ゆふされば大根の葉にふる時雨いたしく寂しく降りにけるかも 斎藤茂吉「あらたま」
宗次郎に/おかねが泣きて口説き居り/大根の花白きゆふぐれ 石川啄木「一握の砂」
大根が身を乗り出してうまさうな肩から胸までを土の上に晒す 奥村晃作「父さんのうた」
一般に犬はワンワン叫ぶから普通名詞でワンちゃんと呼ぶ 「蟻ん子とガリバー」
大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり 花山多佳子「木香薔薇」
世界じゅうのラーメンスープを泳ぎきりすれきれた龍おやすみなさい 雪舟えま「たんぽるぽる」
電車の外の夕方を見て家に着くなんておいしい冬の大根 永井裕「日本のなかでたのしく暮らす」


→上句は短歌的表出体の原型で、下句は作者の主観的な術衣として自立させている。茂吉以外は散文的な発想で、永井の句跨りを除いて、語の区切りが意味の区切りなので統辞構造は,如一首の終わりに空白が置かれている。客観的表現は客観的な術衣であても、複雑な表出として、視覚や感覚の転換や連合が行われていて、口語・散文化は主観的表現を空白として文の最後に追い詰める形が多い。


〈参考文献〉
『表現の吃水』永田和宏
『言語にとって美とは何か』吉本隆明
「句的均衡の対岸へ」三枝浩樹(『現代俳句』第二集)


(記/久真八志)

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