Kabamyレポート(第二十二回)二〇一七年二月十二日(日)
 於あんさんぶる荻窪(第1教室)

【参加者】飯島章友、高柳蕗子、久真八志、杉田菜子、藤島優美 
(ゲスト)中成

 

今回のKabamyは「歌集を読む」形式の勉強会(※)の新しいやり方を開発するというテーマで行いました。
※歌集を一冊取り上げ、その考察を行う形式。一人以上のリポーターによる基調発表、パネルディスカッション、参加者による数首選などいくつかバリエーションがある。歌集の批評会なども含む。

 

[1]オープニング
・参加者の自己紹介 

 

[2]これまでの「歌集を読む」勉強会の問題を探ろう
・事前に参加者および非参加ながら協力いただいた方へのアンケートを行っており、その回答をもう一度検討する。
アンケートの設問は「歌集を読む勉強会に出て期待外れだった経験はなにか?」
・回答内容の要点をホワイトボードに書きつつ、「回答者が勉強会に最も期待していたことは何か」を深堀りする。
(主な回答例)
・「忌憚なく厳しいご意見を」と司会者が言うが、「忌憚なく言えない」という根本問題を改善する工夫をせず口先だけで「忌憚なく」と言う程度の問題意識である。また忌憚なく言うのが「厳しいご意見」では「ほめるかけなすか」という次元のジレンマを克服できない。
・リポーターと他の参加者の質疑応答があったが、互いに重視しているポイントが異なり、論点がずれたまま意見が対立する状況が生まれ、場の空気が悪くなってしまった。
・規定のリポート発表時間をオーバーして長引いてしまう。そのあとのディスカッションの時間がなくなる。また時間を守れない発表者はたいていの場合、自分の言いたいことが定まっていない。だから自分の発見したいくつかのことの、ほとんど全て言及しようという構えで、結果的に論点が散漫になってしまう。
・作者の立ち位置とか、思想が問われる場面があったのに、沖縄から来られた年長者(福島の時も)なので、突っ込めない。現場性とか、作者の切実さと、作品の成立とがごちゃ混ぜのまま話される。作品の読み方が問われないと面白くないのだが、当人と対面してだと、かなり際どい話になる。
・作者が仲良しでその友人をただ持ち上げているときは聞いていても新しい発見がなくつまらないと感じる。
・複数のパネリストの意見がけっこう食い違っていたが、それぞれ「私はこう思います」で終わってしまった。司会が議論を促したが、うまく発展しなかた。

 

[3]「今まで勉強会でできていなかったこと」は何か?
・「期待外れだったこと」は「今までの勉強会でできていなかったこと、つまり期待されていたが提供できていなかった価値」である。
・「今まで勉強会でできていなかったこと」のうち、似た意見を集約する
・全員で、特に解決すべき重要な問題を合議で決定する。今回は3つの問題を設定した。
問題A「歌集の新しい見方を成果として提示できない」
問題B「作家(歌人)を論じてしまう」
問題C「相容れない立場の人と話ができない」

 

[4]「今まで勉強会でできていなかったこと」を解決するアイデアをたくさん出そう
・2人ずつのチームに分かれ、[3]で解決すべきと決めた「今まで勉強会でできなかったこと」を割り当てる
A解決チーム 飯島、中
B解決チーム 久真、杉田
C解決チーム 高柳、藤島
・各チームはその解決策のアイデアを出す。まずはとにかくたくさんアイデアを出すことを目指す。目標は20個。
※解決策は勉強会のテーマの設定条件や進行のルールなど、イベントを進行させる枠組み(フォーマット)であることとする。個人の力量に依存しないで済むことを念頭に置く。
・各チームは思いついたアイデアを大き目の付箋に書きとめ、模造紙に貼るなどして発想を広げていく

 

[5]もっとも効果的な解決策を考えよう
・各チームは[4]で出た解決策のうち、もっとも効果的なアイデアはどれかを議論し、最終的に提案する一案を絞る。その案に沿った企画書を作る
 企画書の形式:「歌集を読む」形式の勉強会のフォーマット・タイトル・コンセプトを書く

 

[6]コンペ【プレゼン&質疑応答】
・各チームの企画書をホワイトボードに貼り出し、『これからの「歌集を読む」勉強会はこれ!』というテーマの発表を行う。持ち時間は3分。
・プレゼン後、参加者全員で講評。

 

Aチーム
 タイトル:少数精鋭による長期戦
 コンセプト:歌集の新しい見方を成果として提示できない、を解決する
 フォーマット:個人個人が辞書、ネット、書評を活用し予習してくる。少人数(なるべく部外者を含む)のグループ分けをし、発表し合う。勉強会を終えてから時間をおき、もう一回同じテーマ(歌集の新しい見方)で勉強会を行う。
 ねらい:まず既にある歌集評を集め、インプットする。少人数にするのは互いに顔が見える距離を維持し、気軽にしかし集中を維持しながら議論の質を高める効果を狙う。なるべく短歌以外の造詣のある参加者を加えることで多角的な意見を取り入れる。短時間では有効な意見が出ないこともあるので、一度勉強会をしたあと、ある程度の期間を置いてもう一度勉強会を行う。

 

Bチーム
 タイトル:凸凹コンビで読もう!
 コンセプト:作家(歌人)を論じてしまう、を解決する
 フォーマット:リポーターは二人の作者の歌集を比較する。二人の作者は属性(出身地、生年、職業、性別等)に共通でない点があること。二つの歌集はモチーフ・修辞・文体などで似ている要素があること。発表者は属性の違いに関する何らかのデータ(統計、史実)を出すこと。
 ねらい:作者個人の事情ではなく、環境というもう少し拡げた枠組みで作品の背景を捉える。そのために二人の何らかの属性の異なる作者の歌集を選び、その属性にフォーカスして論じる。客観性のある資料を用意することで焦点を明確に、かつ共有しやすくする。歌集はまったくかけ離れたものではなく一見似ていると感じられるものを選定する。

 

Cチーム
 タイトル:この指とまる??
 コンセプト:相容れない立場の人と話ができない、を解決する
 フォーマット:読む人の立場で見解が異なりそうな歌集を取り扱う場合に適用。作者自身に「作者がこだわって発信したいこと」を先行して調査する。調査をもとに読者アンケートを実施する。アンケートでは回答者情報の他、作者の見解や立場に対して賛同・中庸・反対・無関心など共鳴の度合いを訊きつつ、好きな歌を選歌してもらう(例えば二〇首など)。パネリストはこのアンケート結果(共鳴の度合いごとに現われる選歌傾向の違い)を考察の対象にする。傾向に違いがあるならば背景は何か、まんべんなく選ばれる歌があるならばどこに良さがあるか。
 ねらい:歌の技法だけに焦点をあてると、むしろ作者のこだわりや発信したいことを軽視してしまう恐れがある。そこで共通の基盤を得る、客観性をもたせる、作者の意図の尊重の三点を重視したい。そのためまず作者の見解を明確にする。次にあえて作者を含む関係者の立場の違いと選歌傾向を調べて客観性のあるデータに変換することで、参加者間の分断があることを共通認識として得られる。パネリストはその状況を考察することで、各人の立場を尊重しつつ考察が可能となる。

 

【参加者の感想】
・面白かったこととしては、自分の経験について発言し、皆で話し合ったことで、勉強会では新しい見方を見出すといった、今後の目的意識などを確認できたり、実際に勉強会の新しい方法を発想できたと思えることです。
・人が集まって意見交換をする場を有意義にするためには、共通の地盤から出発できるよう「場」を設計する工夫が必要だとわかった。
・勉強会の内容そのものについて話し合うことで、計画も立てやすくなって良かったのではと思います。また「こういうことがあって困った」話が「あるあるネタ」的に共有されていくのが面白かったです。

 

(記/久真八志)
 

Kabamyレポート(第二十一回)二〇一六年十二月十一日(日)
於あんさんぶる荻窪(第1教室)
 

【参加者】高柳蕗子、久真八志、飯島章友、河野瑶、山下一路、沢茱萸(ゲスト)中崎成、温井ねむ
今回のKabamyは「歌集の副読本ビブリオバトル!」と題し、歌集の副読本を紹介し合いました。また後半には本年度短歌研究新人賞「いつも明るい」(武田穂佳)の選考委員選評を検討しました。

 

 

◆歌集の副読本ビブリオバトル!
【進め方】
1.発表参加者が読んで面白いと思った本(歌集の副読本)を持ってくる
2.順番に一人5分間で本を紹介する
3.それぞれの発表の後に参加者全員でその発表に関するディスカッションを行う
4.全ての発表が終了した後に「どの副読本が単体で一番読みたくなったか?」および「どの副読本と歌集をセットで読みたくなったか」を基準とした投票(一人五点持ち。自由に配分)を参加者全員で行い、最多票を集めたものをおのおの『チャンプ本』とする

 

【発表】
◎温井ねむ
副読本「べっちんとまんだら」松本次郎
歌 集「ビットとデシベル」フラワーしげる
 副読本は杉並区の河川敷でゾンビ駆除を行うべっちんとまんだらという少女を描いた漫画だが、ストーリーにはほとんど脈絡がない。作中の描写は彼女の妄想ではないかと思われる箇所もあり、またべっちんは記憶の欠落を抱えている。自分自身に頼るところがないまま、べっちんの強い感情だけが作品を通貫している。ここでは自分自身が感情の穴となっている。
「ビットとデシベル」の作中主体は矛盾するアイデンティティによって分割され、それらが衝突し合うような全体を持たない存在である(久真、Kabamy14) 自分自身が何者かははっきりしないが、強い感情は確かに存在し、大きなエネルギーとして自分のなかに渦巻いている。

 

◎沢茱萸
副読本「性悪猫」やまだ紫
歌 集「燦」河野裕子
 『性悪猫』の中に収められた「天空」という二ページの作品を紹介し、漫画で表現された「短歌的視点」について論じた。作品冒頭に登場する猫(作中主体)の視点が、コマを進めるごとに猫から離れて最後は作者の意識の世界へと転じ、読者も共に「そこ」に連れて行かれるのである。このような体験が、非常に短歌的であると考察した。
 河野裕子の連作「菜の花」の中に「しんきらりと鬼は見たりし菜の花の間(あわい)に蒼きにんげんの耳」という一首がある。やまだ紫は『性悪猫』の次作のタイトルを『しんきらり』とし、作品冒頭で「菜の花」の連作九首すべてを引用している。このことから、当時やまだが河野裕子の短歌に少なからず影響を受けていたことは明らかである。
 つげ義春はやまだ作品について「ストイックすぎて読後のカタルシスがない」と評しているが、「菜の花」が収められた河野裕子自選歌集『燦』を読んで、こちらもまたストイックさを感じずにはいられないのである。

 

◎久真八志
副読本「草食系男子の恋愛学」森岡正博
歌 集「それはとても速くて永い」法橋ひらく
「草食系男子の恋愛学」では、劣等感を抱えているせいで恋愛に対する苦手意識がある男性を草食系男子とし、彼らが自分の弱いところとどう向き合うべきかを説く。男性には自分の弱いところを隠すために身につける鎧があるという。ちなみに発表者は自分のなかの怒りを隠したくて感情を出すのを苦手にしていたため、『電線で混みあっている青空のどこかに俺の怒りの火星【アレス】』という歌集収録された一首に共感を持っている。
歌集の主体は性欲への嫌悪を詠ってもいる。それが行き過ぎて、人を強く愛したいという欲求すら抑えるべき対象になってしまっているのではないかと感じた。人に愛情をぶつけることの激しさを恐れて、それを隠すための鎧として優しさを身につけているように思える。自らの優しさに対する屈託はそこからきているのではないか。

 

◎飯島章友
副読本「川柳神髄」尾藤三柳
歌 集「一握の砂」石川啄木
明治43年に刊行された『一握の砂』には一般的なイメージに反し〈変な歌〉も散見される。この啄木の変な歌は「へなぶり」という明治狂歌の影響を受けていた可能性が高い。狂歌とは五・七・五・七・七で構成される諧謔形式の短歌。〈啄木のへなぶり調〉とはたまに耳にするが、「へなぶり」がどんなものなのかを記した書物は殆どない。ここに紹介する『川柳神髄』は、先日亡くなった川柳家・尾藤三柳氏の評論集。本書は「へなぶり」についても一テーマとして論じている。本書によると「へなぶり」は明治38年2月24日、読売新聞紙上に同紙の川柳欄選者だった朴念仁が「へなぶり」と題する狂歌二首を発表したことに始まり、その後読者からの投稿が寄せられてたちまち人気欄になったという。狂歌・川柳が啄木に影響を与えていたかもしれないと思って読むと実に興味深い。

 

◎河野瑤
副読本「整形前夜」穂村弘
歌 集「羽虫群」虫武一俊
 穂村弘はなぜ痛いおじさんにならないのか。それは驚異をベースにした年齢不詳の若さによるのではないか。穂村は副読本で「驚異こそが詩の源泉である」と断定し、若者は驚異と親和性が高いと述べている。
しかし一方で近年の若者については言葉が共感寄りにシフトしている可能性を述べ、それによって世界が更新されず、より大きな世界の滅びにつながることを危惧する。
虫武の歌はニートや就職面接が題材として取り上げられ、それらへの感慨が詠われていると捉えられがちである。しかし世界への違和感をベースにした驚異の歌も散見される。今の若者は以前よりもこの環境の中で驚異を表現しているのかもしれない、それを知るためにいい歌集であろう。

 

【結果】
副読本のみ:沢茱萸の紹介した「性悪猫」(やまだ紫)がチャンプ本となった。
 【会場意見】短歌と絵の関係性についてインスピレーションを得られそう。
副読本+歌集:飯島章友の紹介した「川柳神髄」(尾藤三柳)+「一握の砂」(石川啄木)がチャンプ本となった。
 【会場意見】これまで石川啄木にはあまり興味が持てなかったが、「へなぶり」という全く知らない見方を与えてくれそう。

 

 

◆短歌研究新人賞「いつも明るい」(武田佳穂)選評の検討
進め方:該当作品の選考委員(穂村弘、加藤治郎、栗木京子、米川千嘉子)の選評や座談会の講評を読み、最も納得できる/納得できない評をしている選考委員をひとりずつ挙げる。
以下、会場意見を抜粋。


・作者を高校生ぐらいの若い年代に想定し、その作歌姿勢に踏み込んで、若者らしいとポジティブに評価してしまっている。想像される人物像と作者が全く異なる年代性別だったとしたら通じないやり方ではないか。それを避けて作品にフォーカスしている委員もいる。
・ほとんどの選考委員が青春にうっとりし過ぎではないか。今の十代の現実が表れていると評価する発言もあるが、年齢がかなり上である委員が、なぜそれを十代の現実だと言いえるのか。自分が体験してきた青春のきらめきを投影して、その良さにうっとりしてしまっているだけではないか。十代の現実は多様であるのが当たり前なのに、特定の傾向を「若者らしい」と言う根拠が見出せない。選考委員の好みの青春、若者らしさを評価しているに過ぎないのではないか。
・外界と向き合い自らの心を覗きこんでいる点を評価しているが、それがなぜポジティブに評価し得るのか。それだけで良いと言えた時代はもう過ぎているのではないか。
・受賞作の感情の淡さを「ゼリー状の輝き」と表現した点は的を射ている
・裏を返せばすべて嘘かも知れないという感覚が詠われているとする評があるが、その不確かさに焦点を当てているのがまさに受賞作ではないか。大方の選考委員は、ストレートに十代の感情の淡さが表れていると捉えてしまっている。
・受賞作は「キャラづくり」をしているという見方も可能である。選考委員で作者の今後を楽しみにしているような発言があるが、このキャラでそのまま行くのは難しいのではないか。
・そもそも選評のなかでで今後が楽しみというエールを送ってしまうこと自体、評として適当でない。更にこの発言の背景には、作者のプロフィールが不明であるにもかかわらず、作品で描かれた人物をストレートに作者像と重ねる読み方がある。現在の短歌では必ずしもそれが一致しないことを念頭に置くべき。

(記/久真八志)
 

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【2003年以降の穂村弘作品リスト】

本企画にて作成した2003年以降の穂村弘作品リストを公開します。

※本リストは有志が集めた情報をまとめたものであり、2003年以降の穂村弘作品の全てを網羅するものではありません。

※本リストの情報の間違いによって生じた損害・トラブル等の補償はいたしかねますのでご了承ください。

 

★エクセル版

下記リンクから閲覧、ダウンロード可能です(Googleドライブ利用)

[エクセル版リンク]

URL:https://drive.google.com/open?id=0BzxZ66iatJ96RVVEWGJDeEVlZmc

 

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【発表資料】

・久真八志 『手紙魔まみ』における穂村弘の文体の変容

下記リンクから閲覧、ダウンロード可能です(Slideshare利用)

[資料リンク]

 

・睦月都 穂村弘近作百首選

下記リンクから閲覧、ダウンロード可能です(Googleドライブ利用)

[資料リンク]

※本資料は穂村弘氏ご本人の許可をいただいて掲載しております。

 

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:イベント報告:

Kabamyレポート(第二十回)二〇一六年十月十六日(日)
 於あんさんぶる荻窪(第1会議室)

【参加者】高柳蕗子、久真八志、飯島章友、睦月都、河野瑶、吉川満、前田宏、佐々木遥、石狩良平、嶋田恵一、穂村弘、木村友 (購読会員)足田久夢 (ゲスト)本多真弓、松本宗久、相田奈緒、ユキノ進、國森春野、村井祥子、大村咲希、原田彩加、山城周
今回のKabamyは「研究発表会・穂村弘を追いかける!」と題し、レポーターが穂村弘についての発表を行いました。
なお本企画で作成した「2003年以降の穂村弘作品リスト」ならびに睦月都、久真八志の配布資料はKabamyブログにて掲載しております。左記のURLからアクセスしてください。
URL:http://kabamy.jugem.jp/?eid=23
※以下は発表内容の要約です。詳細は公開している配布資料をご覧ください。

 

【1】『手紙魔まみ』における穂村弘の文体の変容(久真八志)
[方法]
計量テキスト分析手法を用い、『手紙魔まみ』までの穂村弘作品の各品詞の出現頻度を算出し、比較した

 

[結果]
○『手紙魔まみ』以前の穂村作品の傾向
a.名詞偏重  名詞の出現頻度が高い。
b.形容詞、副詞、形容動詞の低頻度使用
c.格助詞「の」の高頻度使用
助詞のなかでは格助詞「の」の出現頻度が高い。これは名詞を多く用いることと関係する(「の」は主に体言につく)

○『手紙魔まみ』で起こった変化
d.品詞の偏りの解消 
名詞の出現頻度が減り、形容詞・副詞・形容動詞の出現頻度が増加した。
e.一部助詞の使用頻度増加
終助詞「ね」「わ」「の」の出現頻度が増加し、他のカテゴリーよりも高くなった。
g.助動詞の使用頻度増加
助動詞の出現頻度が増加し、他のカテゴリーよりも高くなった。特に「ます」「です」

 

[考察]
○『手紙魔まみ』以前の穂村作品
・名詞と格助詞「の」を多く用い、名詞の意味を限定する
・形容詞や副詞、形容動詞をあまり用いない
・論述の展開は妥当であり、論理的にも整合する文であるという印象を与えるように歌の体裁を整える
このような書き方は、不特定多数の人に自分が見聞きした物事を説明することを意図して描かれた文章(報告文書)に似ている。書き手の心情を表に出しにくい。(※参考1参照)

○『手紙魔まみ』作品の特徴その1
・名詞や格助詞「の」の減少により名詞の意味を限定する頻度が減り、また情報を過度に省略したり、前後の関係が不明なフレーズを並べることで、物事の起きている順序や因果関係がはっきりしなくなる
・形容詞、副詞、形容動詞の増加により語り手の判断や心情を知る手がかりが増える
このような書き方は、文脈を既に共有している相手に向けて、自分の心情を中心に話す文章(私信)に似ている。第三者から見れば、不正確で不十分な説明に見える

○『手紙魔まみ』作品の特徴その2
・助動詞「ます」「です」の多用
・終助詞「ね」「わ」「の」の多用
これらは主体が「若い女性」であることを想像させる効果を持つ。このとき想像されるのは、読者の若者観・女性観に基づくあるいはステロタイプな「若い女性」のイメージである。

 

[結論]
・『手紙魔まみ』収録作品は、それまでの穂村作品と比較して二点の特徴を持つ。
‘票圓吠弧を追い切らせない書き方
⊆磴そ性を想起させる終助詞、助動詞の多用
この特徴は、以下のような文体の変化といえる。
◎読者に若い女性を想像させ、それを基に不足している情報を補うよう促す。読者は各々の想像をもとに、主体の知識や心情を推定し、「まみ」という人物を理解できたように感じることを通して、作品に対する理解を進める。


〔参加者より〕
・短歌に使われる言葉の定量分析は昔から行われていますが、品詞レベルでの文体変容分析は初めて見たので新鮮でした。
・会でもすこし話が出ていましたが、形態素解析でなく語のもつ印象とか意味のレベルで分類できればまた別の何かが見えそうだと思いましたが、分析手法として難しすぎたり要素の選定から恣意が除きにくかったりと問題が多くてかなり困難ですね。

 

 

【2】穂村弘作品のテーマの変遷――近作評を中心として(睦月都)
 穂村弘氏は第一歌集『シンジケート』から第二歌集『ドライドライアイス』、「まみ」という少女から穂村弘に宛てた書簡集という設定の異色の歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』と、単独名義では歌集を三冊、またその後二〇〇三年にはベスト歌集として『ラインマーカーズ』が出版されているが、それを最後に現在まで歌集はまとめられていない。そのため現状、『ラインマーカーズ』以後約一三年間の穂村作品を扱うには総合誌等を地道にあたるほかないが、今回はその道標となるべく、まずは発表媒体の情報を取りまとめ、これを評論等に広く利用できるような形で公開したい、ということを第一の目的として調査・発表を行った。

 調査にあたってはまず、この期間の作品について久真八志氏とともにTwitterで情報提供を呼びかけ、発表媒体やタイトル等の情報を募った。この結果、計八〇作品を超える情報が寄せられ、これらを随時精査の上でリストに一覧化した。また、寄せられた情報をもとに作品にあたり、計千首以上の歌群から特徴的な歌を百首選出した。なおこの資料はKabamyブログに掲載されており、こちらも参照されたい。

 

 当日の発表では先述の百首選をおよそ二、三年ごとに区切って整理し、各年代のテーマやモチーフ、文体の傾向について考察した。特に重点的に話したポイントとしては、二〇〇六年以降のノスタルジー傾向と、二〇一一年以後の震災や戦争、政治的な視点の導入である。

 

 二〇〇六年、母への挽歌として描かれた連作「火星探検」以降の穂村弘作品では、昭和の風景や家庭の記憶を、子どもの視点から子ども口調の文体で描くという試みが繰り返し行なわれている。さらに言えば、その景は純粋な昭和でなく、また主体もはっきりと子どもではない。実際には大人である作者の顔と、実際に作者の生きる現代との景とがときおりノイズのようにまじり、やや不気味で歪んだ世界が立ち上がっている。この時期、穂村弘は短歌という「私」の詩型を逆手に取って「子どもの私」を再規定し、何度も昭和の、母が生きていた子ども時代を生きなおそうとしているように思われる。しかし実際には四、五〇代で現代に生きている作者が「子ども」視点を仮構することが、SFのタイムパラドックスのように、何度過去に戻っても、景や主体のどこかに常に歪みが出てしまう事態となっているという印象を受けた。

 

二〇一一年以降、震災や軍隊、戦争といった社会的なテーマがあらわれる。特にここ数年の穂村弘作品は、初期の空想的な世界観から母の死をきっかけとするノスタルジー期を経て、現実の社会、現実の自分に少しずつコミットしているように見える。<なにひとつ変わっていない新世界 あなたにもチェルシーあげたい>、<ふりかけで育った子どもたちだけを集めて国を守る軍隊>などは二〇一一年以後に作られた歌だが、ポップな口語体という文体上の理由か、もしくはわれわれ読者の中にある穂村作品を読むコードがまだ空想世界から抜けきっていないという問題もあるだろうが、これらの歌にもどこか浮世離れした空気がまとう。穂村作品が今後モチーフと文体のバランスをどのように取っていくのか、ひとつ注目のポイントとなるだろう。


〔参加者より〕
・穂村さん自身もあまり把握していない短歌を多数収集して今後の穂村弘研究の礎石となるような資料を作成したことはすばらしいことで、大変な努力だと思います。
・「戦争」を歌った歌に関して、お話がありましたが、〈穂村弘の社会詠〉は、もっともっと話題になっていいテーマだと、個人的にここ数年感じています。
・歌集めにエネルギーをかなり消費し、それらの歌に対しての関心を絞り込んで踏み込むところまでいかなくて、いろいろな特徴を睦月さんなりに見つけて報告する、という段階にとどまった感がある。


(記/久真八志)
 

 

 

 

Kabamyレポート(第十九回)二〇一六年八月二一日(日)
 於あんさんぶる荻窪(第1教室)
 

【参加者】高柳蕗子、久真八志、山下一路、飯島章友、河野瑶、斎藤見咲子、吉川満、田村聖也、前田宏、東直子、佐々木遥 (ゲスト)温井ねむ、詩穂、原田彩加、有原汐、市岡和恵[質問のみ](購読会員)足田久夢[質問のみ]


今回の Kabamyは「みんなで答える!読みのお悩み相談室(東直子編)」です。読みで壁に当たっている部分を他の人に相談して、考えてもらうという企画です。今回は東直子さんの歌を取り扱いました。。

 

〈進行〉
(1) 指名  質問人以外の役割分担を決めます。 
(2) 質問【5分】 質問人が歌と質問を提示します。
(3) 討論【15分】 回答人は回答案や回答につながるような意見を発表します。回答人は、まとめ人に自分の回答案を採用してもらえるように最大限のアピールをします。
(4) 回答【5分】 まとめ人が討論の内容を踏まえ回答をまとめて、発表します。回答は「答え+理由」を二文で述べる形式にします。

 

〈役割分担〉 
質問人(1名) 歌と、歌に対する質問を提出する役。
回答人(複数名) 質問に対する回答を考えて提案する役。まとめ人に自分の回答案を採用してもらえるように最大限努めること。他の回答人の答えに対する部分的な賛同、反論は自由にしてよい(全面的な賛同はなし、ちょい足しはあり)
まとめ人(1名)  回答人たちの回答案から、最終的に一つの回答をまとめる役。一つの回答を選択する、または複数の回答案を集約して回答をまとめること。自分の意見を反映させず、最も説得力のあった意見を採用する。
司会(1名) 進行の各ステップへの切り替えを行い、また討論中の発言者を決める役。

 

〈質問および回答結果〉
(ア)ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね 「青卵」
[Q]ママンは生きているのでしょうか? (久真八志)
[A]生きていません。なぜなら、この歌には尋常でない切実さがあり(執拗な念押し、確認)、ぼくは普通ではない精神状態である。よって、ぼくは見間違えるほど遠くにある鳥と砂をみながら、もはや隣にいないママンによびかけているのだ。(まとめ人:温井、回答人:詩穂、有原、吉川、原田、司会:久真)

 

(イ)ふくらはぎの形について考える例えばミルクこぼした朝も 「春原さんのリコーダー」
[Q]なぜミルクなのでしょう? 例えばコーヒーや紅茶ではそぐわないのでしょうか。(足田久夢)
[A]ミルクは、コーヒーや紅茶と違い、動物から取るため、肉体的なイメージを伴っており、「ふくらはぎ」のたぷんとして白いイメージとも共通する。また、ミルクには幼さや幼少期を懐かしむイメージがあり、「考える」という思いをはせる行為を連想させる。これらが、この歌で「ミルク」が使われている理由である。(まとめ人:田村、回答人:久真、詩穂、有原、吉川、原田、司会:東)

 

(ウ)消したいと思ったこともあったけど「なめらかプリン」分け合っている 「十階」
[Q]誰が誰を消したいと思ったのでしょうか? (市岡和恵)
[A]上の句で過去に「消したい」と思ったこともあるが、下の句で今はプリンを分け合って折りあっているという文脈は夫婦や恋人の関係性におけるステレオタイプ。しかし「消したい」は強い言葉であり、卑近な夫婦や恋人なども全て含めた「世界」そのものと考えるのが妥当だろう。(まとめ人:飯島、回答人:高柳、山下、斎藤、佐々木、河野、前田、司会:温井)

 

(エ)写真だけ残してこの森(くに)に死ぬ三万人のねがいのために 「こんなところにポピーが咲いて」(短歌ヴァーサス4号)
[Q]この「三万人」はどんな人たちなのでしょうか? (詩穂) 
[A]不本意な形で外国の地で亡くなった人たちです。「三万人」の議論の前に…「死ぬ」の後で切れるのか否か議論になったが、一字空けがないのでつなげた方が妥当であると確認した。つなげて読むと「写真だけ残してこの森に死ぬ」三万人への追悼、鎮魂の気持ちを感じる。「この森(くに)」から外国らしい感じがある。(まとめ人:佐々木、回答人:高柳、温井、田村、原田、司会:山下)

 

(オ)青空の被膜を破り落ちてくる うまれることをおそれたひかり 「うた新聞」2016年7月号
[Q]落ちるのは「ひかり」の決意によるものでしょうか? それともやむなくそうなってしまったのでしょうか? (有原汐)
[A]決意によるものです。「ひかり」が物質そのものを指すのであればものに意志はないの決意はないと考えられます。しかし、「破り」「おそれた」という言葉にはひりの意志のようなものが感じられます。「破り」というのは能動的であり、「おそれた」というのは感情なので(「落ちてくる」は受動的ですが)、歌のつくりとしてはひりの擬人化であると考えられるため、決意によるものだと判断しました。(まとめ人:斎藤、回答人:久真、前田、飯島、吉川、司会:河野)

 

(カ)好きになるという粘土質歩くとき私に神がいないさびしさ 「春原さんのリコーダー」
[Q]もし神がいたら、「私」に何をもたらしてくれるのでしょうか? (田村聖也)
[A]確かな足場です。粘土を溶かしてくれる気持ちそのものと言えます。自分の思いに縛られている状態をなんとかしてくれ、さびしさが取り除かれます。(まとめ人:原田、回答人:温井、有原、前田、河野、司会:高柳)

 

(キ)ずっと一緒にいられなくても覚えてる川が黒くて、それをみたこと 「かばん」2015年5月号裏表紙
[Q]「、」はあった方が良いのでしょうか? (斎藤見咲子)
[A]良いです。読点は「川が黒かったこと」と「それを一緒に見たこと」の二つの事実を強調します。一緒に見たことは、一緒に居る誰かとの関係性を主体が大切に思っていることを示し、「川が黒かったこと」はその印象的な光景故にいつまでも覚えていることを担保する二人にとっての共有財産として機能しています。(まとめ人:久真、回答人:吉川、佐々木、飯島、山下、司会:詩穂)

 

(記/久真八志)

 

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Kabamyレポート(第十八回)二〇一六年六月十二日(日)
 於あんさんぶる荻窪(第2会議室)
 

【参加者】高柳蕗子、久真八志、山下一路、飯島章友、河野瑶、斎藤見咲子、櫛木千尋 (購読会員)足田久夢 (ゲスト)温井ねむ
第十二回の Kabamyは「問と答で読める/読めない短歌・俳句・川柳」です。今回はテーマに沿って飯島さん、山下さんが発表を行いました。

 

○飯島章友『川柳の問答と俳句の切れ』 
川柳という文芸は、一句の中に「問答」を内包していることが多い。一七六五年に初篇が刊行された川柳アンソロジー『誹風柳多留』から例をあげる。


かんざしもさか手に持てばおそろしい


 例句は、「問 かんざしってどんなもの?」「答 恐ろしいものだよ……」「問 どんなときに?」「答 逆手に持ったときさ」という問答の関係が一句に埋め込まれている。そしてこの問答体が、「かんざしハおそろしい」という意味の完結感を生んでいる。
現代の川柳でも一句の中に「問答」を内包する作品は多い。


いもうとは水になるため化粧する  石部 明 


 石部の句では、「問 いもうとが化粧するのは?」「答 水になるためだ」という問答が成り立つ。ただし、「化粧するのハ水になるため(である)」という問答関係には論理の飛躍があり、意味が完結しきらない。こうした曖昧さを残したままの問答は、現代川柳の或るエコールの作品の特徴であり、古川柳とはまた違った妙味を生んでいる。

いっぽう川柳とおなじ五七五形式の俳句は、一句の中に「切れ」を組み込むことで文脈や論理を断ち切り、明確な答え=意味が生じないよう工夫してきた文芸に思える。


古池や蛙飛び込む水の音  芭蕉


 外山滋比古はこの句について次のように分析する。
「『古池や』のあとの空間において、古池の残像と、それと方向の違った『蛙飛び込む』という二つの表現が重なり合うことになる」(『省略の詩学』)
「切れ」によって生れた「古池や」と「蛙飛び込む水の音」の二ブロックは、鑑賞者に明確な意味を生じさせるのではなく、取合せによる情緒を生じさせる方向に働いているのだろう。
 また仁平勝はこの句を例にあげて、俳句の言葉は必ずしも意味を目的にしないことを説いている。
「この句のもとになる風景は、〈蛙が飛び込んで水の音がした〉ということです。その意味だけ考えれば、『古池に蛙飛び込む……』としても同じで、むしろそのほうが意味は明確になります。それをことさら『や』とするからには、俳句の言葉がかならずしも意味を目的にしていないことがわかります」(『俳句をつくろう』)

 

 しかし現代の俳句を眺めてみると、まるで川柳の問答体を思わせる構造も散見される。


この世でもあの世でもなく耳の水  野間幸恵 
あぢさゐはすべて残像ではないか  山口優夢


 たとえば一句目は、「いとこでも甘納豆でもなく桜 なかはられいこ」という現代の川柳作品と同じ書かれ方である。二句目は、たとえば先の「いもうとは水になるため化粧する」という石部の川柳と比べたとき、むしろより意味が明快なくらいに思える。このように現代の俳句と川柳は、両詩形のそもそも論だけでは比較しきれない状況にある。ただし、両詩形の一部の類似をもって全体論にまで押し広げることはしたくない。


 今回のレポートは、あくまでも歌人に向けて作成したため、「問答」「切れ」という両詩形の歴史的な標準構造をおもに探ってみた。今後また似たテーマで発表する機会があるなら、そのときは現代の俳柳の異同に焦点を絞り、第三者たる歌人の意見を聴いてみたいものだ。

 

 

○山下一路 レジュメ抄
・永田和宏の見解
「上句と下句がほとんど何の脈絡もないような別々のことを述べているにもかかわらず、ばらばらに分裂してしまうことなく一首として読めるのは、そこに吉本の言うように韻律の強い力が磁場のように働いているからだろう。しかし、その二つの句が互いに深い対立性のうちに、互いに喩として作用し合うような機能(短歌的喩)は、決して〈指示性の根源〉としての韻律の力だけによって生まれるものではなくして、そこにはかならず、言語本質のもう一方の属性としての自己表出性が可能なかぎり励起されていなければならない」(『表現の吃水』永田和宏 )
→自己表出性の欠落が、歌いづらい状況のなかで読者が感動する作用を削いでいる、というのが永田の考えだ。日常的な自己に違和を提示し、亀裂を感じ、自己を揺すられ自己認識の再検討を迫られ自己変革へ向かう行為を一首、一連の歌に求める熱い思いがあった。自己表出性の欠落を永田は『「問」と「答」の合わせ鏡』のなかで、主体と対象の関係性として述べている。


〈例歌〉硝子越しに五月の海を磨きつつ遠くなりたる青春思ふ 志垣澄幸


→上句の魅力的な「問」のフレーズに対して、「遠くなりたる青春」の予定調和な安定した「答」には上句と下句の緊張関係がない。

 

・短歌が現在でも保存している表現の原型
ゝ甸囘表現+空白
客観的表現+主体的な感覚をあらわす助詞・助動詞・形容動詞等


〈例歌〉
ゆふされば大根の葉にふる時雨いたしく寂しく降りにけるかも 斎藤茂吉「あらたま」
宗次郎に/おかねが泣きて口説き居り/大根の花白きゆふぐれ 石川啄木「一握の砂」
大根が身を乗り出してうまさうな肩から胸までを土の上に晒す 奥村晃作「父さんのうた」
一般に犬はワンワン叫ぶから普通名詞でワンちゃんと呼ぶ 「蟻ん子とガリバー」
大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり 花山多佳子「木香薔薇」
世界じゅうのラーメンスープを泳ぎきりすれきれた龍おやすみなさい 雪舟えま「たんぽるぽる」
電車の外の夕方を見て家に着くなんておいしい冬の大根 永井裕「日本のなかでたのしく暮らす」


→上句は短歌的表出体の原型で、下句は作者の主観的な術衣として自立させている。茂吉以外は散文的な発想で、永井の句跨りを除いて、語の区切りが意味の区切りなので統辞構造は,如一首の終わりに空白が置かれている。客観的表現は客観的な術衣であても、複雑な表出として、視覚や感覚の転換や連合が行われていて、口語・散文化は主観的表現を空白として文の最後に追い詰める形が多い。


〈参考文献〉
『表現の吃水』永田和宏
『言語にとって美とは何か』吉本隆明
「句的均衡の対岸へ」三枝浩樹(『現代俳句』第二集)


(記/久真八志)